アダムとイブの昔より
 


     3





  Trrrrrrrrr、Trrrrrrrrr……


心地のいい微睡をちりりちりりと揺さぶる何か。
何だか強引な呼びかけのような、無機質な音のような。
無視していいものだと断じた恰好で“意思”が目覚めてしまい、
そうともなると他の知覚の窓もパタパタと一斉に蓋を開けるのは、
油断していちゃあ出遅れて、いつか息の根を止められかねぬ世界に長く居た名残りか。

 「……んう。」

枕元、ヘッドボードの上へと出してあった携帯端末の呼び出し音だと気づくまで、
少しほど間がかかったのは、
此処が、この寝床が、このフラットが、
自分にとってこの上なく、安全で心許せて甘やかな空間に他ならないから。
今や五大幹部に勝るとも劣らぬ火力となった異能を持つ人物が、
自分のためなら何に代えてもとの全力で身を呈すだろうから…ではなくて。
そんな健気な彼と共に逝けるのならば何の不足もないと、
呼吸するよに自然なこととして常から思う自分だからで。

 “…まあ、そう簡単には逝ってやるつもりもないけれど。”

生きる意味を一緒に探そうと、再びこの手をとってくれた青年を、
今度は壊れもののように扱っている自分なのが極端なことよと。
いち早くそれに気づいてたらしい元相棒が、微妙な顔して嘲笑う。
当人は微笑ましいなという顔をしているつもりらしくて、
となると、そう見えるのは 此方の内にひそむ無自覚な何かのせいだろか。

 「………もしもし?」

ごちゃごちゃと余計なことを考えつつも手は勝手に動いており。
とっとと出ないと彼が案じてキッチンから様子見に来てしまうから。
液晶には覚えのない番号が浮かんでいたから登録していない誰かからの入電らしかったが、
そんな相手でこんな朝っぱらから連絡してくるような人物なぞいただろか。
案の定というか、出てみてもうんともすんとも声はなく、
こちらから呼びかければ “ぶつり”と無機質な音がして切れてしまった。
大方、掛ける先を間違えてしまい、
こちらの不機嫌そうな寝起きの声に恐れをなして
謝罪の一言も絞り出せぬまま、黙って切って逃げたというところかと。

 「……。」

何とも微妙なモーニングコールに起こされてしまい、
ベッドボードへ腕を伸ばした体勢からの 俯せだったそのまま枕に顔をうずめたものの。

 “…いい匂いだなぁ、”

出汁巻き玉子とみそ汁の匂い。
ちょっと寝坊した朝は目玉焼きで、そうでない日は和食を手掛ける彼であり、
ということは、今朝は早々と寝床から起き出した芥川くんなのだろう。
ぱふりと顔を埋めた敷布からは、だが、
そういう温かい匂いとは別、太宰の気に入りの匂いがほのかに香っていて。
それはおそらく、今は寝台から離れてキッチンにいる彼の青年の残り香で。
その“仕事柄”か あんまりトワレや香水なんかには関心を向けない、相変わらずに朴訥な青年であり。

 “それでも、どこか冴えた匂いがするんだよねぇ。”

グリーンノートとも違う、ミントでもない、だがどこか冴えのあるほのかな香り。
せいぜいシャンプーか石鹸か、
あとは歯磨き粉の匂いくらいしか縁はないというのが本人の申告だったが、
どこか少年の域を抜けきらない、
精悍さにあと一歩という過渡期の性を思わすそんな清かな匂いが、
何とも彼らしくて好もしい。
うんうん今日も私の気に入りの芥川くんはいい匂いらしいと、
敷布に残った香を堪能してから。
おもむろに身を起こすと
両の腕を天井へ向けて突きあげて、深呼吸と共に大きく背伸びをし、
少しほど寝乱れてはいたが大して気にせず、
半袖Tシャツの上に羽織ったパジャマ代わりのオーバーシャツに
下はイージーパンツといういかにもラフな格好のまま、
もさもさとまとまりの悪い髪をまさぐりつつキッチンの方へと向かう。
寝室の扉は開け放たれていて、
小さな物音で少しずつ目覚めさせようという遠回しな彼からの気遣い。
ただ、これのせいで、
私が私の普通の状態、あまり気配を立てないで近づくと、
火加減などへ注意が逸れてる無防備な彼はてきめん驚かされてしまうようで、

 “それを面白がっちゃあいかんのだろうが。”

何なにそれ? なんてのか、新婚夫婦の定番シチュみたいじゃない?
でも、この子の無防備な背中って、そうそう見られるもんじゃないから。
すらりと細い背に、エプロンの紐がちょっとよじれたまま結ばれているのがまた、
物慣れてないようで愛らしく。
さすがに接するすんで辺りでわざとらしくもスリッパの音をさせ、
でも振り向く隙は与えずに、出来るだけふわりと小さな背中に抱き着けば。
薄い肩が一瞬大きく飛び跳ねてから、

 「あ、えっと、今朝のお味噌汁は豆腐と白ネギです。」

こちらからのおはようより先んじて、そんな言いようを口にした芥川くん。
何の気なしの動作として、それこそおはようございますというためか、
首だけこっちを振り返った彼だったが、

 「……………………。」
 「……おはよう。」

一体どこを見ているものか、
短い前髪の下、隠しようのない硯石のような漆黒の瞳が凍ったように一瞬静止し、
それは強固なまま じいとこちらを凝視する。
私の顔に何かついているのだろうかと、
さすがに不審を覚えかかるほどの間をおいてから、
次に彼がとった行動と言えば、

  ばさばさばさっ、と

まだ外套も羽織らず、こちらと似たような軽装、
単なる室内着に帆布製のエプロンという格好の彼から、異様なくらいにはためきの音が立ち。
それだけ俊敏に動いて身を遠ざけたのだということを思い知らされる。
火から離れる時の行動則か、コンロの火を止めてからというのはおさすがだったが、
距離をとったその上で、こちらに真っ向から立ち向かわんとする、
正面を向けた身の離しようは、明らかに “油断ならない相手”への警戒態勢で。

 「あくたg「貴様、何奴っ!」…はい?」

やや腰を落としての両手を腰脇に、
本来だったら外套のポケットがあろう位置へ手を置く、冗談抜きに定番の戦闘態勢となっている彼で。
しかも表情がまた、こんな朝っぱらからよくもそうまでキレッキレになれると驚いたほどに
冴えて鋭い刃のような、狂犬の憤怒の顔に他ならず。

 「いやいやいや。何奴も何も、私は太宰さんだって。」

朝もはよから元気だねぇと、
まだここまでは ちょっとしたおふざけかもしれないなんていう、
他ならぬ自分へは一等生真面目な相手を捕まえてそんな悪あがきを胸に抱いてた太宰へと向けて、

 「戯言を抜かすなっ、女っ!」

  ………はいぃいぃいい?

ほらよく見てと言うつもり、自分の顔を指差しかけてた手が中途半端な中空で止まり、
鬼へ向かって哭き喚く狂犬のごとくに、それは堂にいった低い声で恫喝してくる愛し子の言いようへ、
一瞬固まった思考を 山のようなクェッションマークが塗りつぶす。

  女? 今この子、女って言ったよね。
  何をとち狂って私を女だなんて言うわけ?
  何か異能でも掛けられてるの?
  だってそんな、私なんてデカい男をどう間違えたら

ちょっと待ちなさいと一歩踏み出し、落ち着きたまえと声を掛けようとした動作に反応したか、

 「……っ!」

白い両手をあてがっていたエプロンがざわりと揺らめいて宙へ浮き上がる。
別段、黒じゃないと発動しない異能じゃあないが、
それでも濃紺のそれがするすると見慣れたフォルムを取るのへ、
こちらもハッとして踏み出したそのまま身を引いている。
その動作の中、肩口に触れたものがあり、
え?と それは本当にほんの刹那のこと、
反射的に視線を下げたその視野の中へと飛び込んできた数々の情報に、
太宰が絶句したのは当然で。
肩へと触れ、そこから前へとそよぎだして頬をくすぐったのは、自分のものらしい濃鳶色の髪で、
いつの間にどうしてだか肩を覆うほどにも伸びているのも驚きだったが、
それ以上に驚いたのが、

 「な……っ。」

その下に見えたなだらかな膨らみだ。
前を開いたままのシャツの下、
ちょっぴり着崩されたTシャツを内から押し上げて、
明らかに豊かな質量のある二つのふくらみが
下がった動作の延長か、たゆんと柔らかそうに揺れたのが視野へと入り……。

 「…あっ。わっ。ちょっと待って、芥川くんっ!」

色々と矛盾が山ほどあるが、とりあえずの緊急避難的な思考が真っ先に脳裏をかすめ、
少しばかり高くなった声が放たれる。
もしかしてもしかすると、
今の私って、この子の最大火力を受け止められない身なんじゃあ……っ、と。
背中をさぁあっと冷たいものがすべり降り、
ああこれで詰んじゃったかなぁなんて、
でも、この子の異能が死因というのは幸せなんじゃなかろうか、なんて。
無駄に回転のいい頭の中でそんなあれこれが錯綜する。
自然な防御反応で体の前へとかざすように出していた両手に、
何か柔らかいものが勢いよく当たった感触があったが、



 「………………あれ?」

ぎゅっとつむってた瞼から力みをそぉっとゆるめ、
恐る恐るに目を開ければ、
前へ伸ばした手は無事で、勿論体のほうにも何の異常もない様子。
それはそおと視線を上げた先で愕然としている人物の表情からも窺い知れて。

 「…な、んで……。」

狙い定めて放った黒獣が、されど髪一条も傷つけていないこと、
その目でようよう目撃したればこその表情だと判る。
異能だけを手のひらへと吸い込まれ、力を失った布がエプロンとして戻ってしまい、
何事もなかったかのような状態へ至っている現状なのへ、
敦くんの虎パンチを何往復も受けたような呆然っぷりでおり。


  はてさて、一体何が起きたのか、
  書き手のタイムアップなので、続きはしばしお待ちあれ。





 to be continued. (17.10.08.〜)





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 *マタタビ酒のお話以上に、ややこしいお話になりそうだなぁ、う〜ん。